撮り鉄の鉄道ノート

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近鉄長野線の歴史を掘り起こすと、近鉄イズムが隠されてた?

近鉄長野線の歴史を掘り起こすと、近鉄イズムが隠されてた?

近鉄の路線シリーズ3つ目は近鉄長野線です。

奈良線橿原線ときて、なぜ長野線やねん!?と思うかもしれんけど

どれやろうか悩むからルーレットで決めよ

とやった結果です。俺のスマホアプリが決めたから順番がこうなったのは許して。

さて、近鉄長野線の歴史を振り返ります。

長野線は近鉄の現有路線では古参中の古参。元々は近鉄(大軌)とはライバル関係だった会社の路線です。

ですが、そんな路線にもなぜか近鉄の主張、主義が隠されてました。(ちょっと大げさだけど)

近鉄長野線の歴史・元は本線だった

近鉄長野線の歴史・元は本線だった

近鉄長野線は河陽鉄道が作った、近鉄では2番目に古い路線です。

今では南大阪線の支線ですが、元々は本線でした。

近鉄道明寺線とセットだった

まずは開業の年表を見てみましょう。

1898年3月24日柏原~古市が開業
1898年4月14日古市~富田林が開業
1902年3月25日富田林~滝谷不動が開業
1902年12月12日滝谷不動~河内長野が開業

道明寺線の部分も載せました。長野線の部分にあたる古市~富田林の開業は、柏原~古市の開業からわずかに1ヶ月弱です。

今や「近鉄長野線」と「近鉄道明寺線」で分離されてますが、元々は1本の路線だという事が分かります。

ちなみに線路自体は繋がってますが、営業運転はなし。

近鉄長野線などの支線と南大阪線の線形

近鉄長野線などの支線と南大阪線の線形

引用:大阪鉄道・路線図

こうしてみれば南大阪線が“いびつな形”をしている事が分かるかと思います。

今、主線となっている南大阪線の方が後付けだからです。

どうして南大阪線を後になって作る事になったのか・・・

それは近鉄長野線道明寺線を作るところまで時を戻しましょう。

長野線を作った河陽鉄道の計画

南河内を便利にするぞ

河陽鉄道は大阪市方面に行く鉄道しか無かった南河内に、バイパス路線を作ろうとします。

  • 1889年5月14日:JR難波~柏原が開業
  • 1898年4月2日:狭山~河内長野が開業(堺東まで繋がってる)
  • 1900年9月3日:汐見橋~堺東が開業

長野線が全線完成する前に、南河内と難波を結ぶ鉄道路線は完成してました。

ですが、高野線の沿線とJR大和路線の沿線を結ぶバイパス路線はなし。

そこで河陽鉄道は大阪市南河内を繋ぎ、パワースポットである高野山の参拝客を獲得する路線を計画し、作り始めました。

河内長野から先は観心寺のあたりを通り、金剛山・千早村あたりまで延伸する計画もあったようです。

延伸計画があった

多分こんな感じ?

国から許可は出ましたが、工事はされませんでした。

不況、合併でゴタゴタしましたし

んな路線誰が使うねん

近鉄は何も進めず、有効期限が切れるまで放置して、計画は白紙になりました。

河陽鉄道が潰れ、新しい会社で完成形に

誰が使うねん

とバカにされて、全然結果が出なかった柏原~富田林の鉄道。

貯金があっという間に底を付いてしまい、会社がダメになりました。

河陽鉄道は新しい会社「河南鉄道」を作り、借金などなどを整理して引き継がせました。

その後に富田林から先の、河内長野までの路線を完成。

計画路線が全てできました。

国鉄との決別

今の近鉄長野線道明寺線大和路線高野線のバイパス路線みたいな役割でした。

今のままで良いのか?

河南鉄道の経営陣が立ち上がり、自社で大阪市への乗り入れを計画します。

そうして道明寺駅から天王寺に向けて新線を作ろうと動きました・・・

その先の話は、また後日。南大阪線の時にします。

廃駅になった2つの駅は不況のせい

廃駅になった2つの駅は不況のせい

廃駅になった駅が2つほど。

西浦駅(古市~喜志間)は1920年4月1日に廃止

旭ヶ岡駅(喜志~富田林間)は一時廃止されましたが、復活。

ですが、大東亜戦争中に休止。

1974年7月20日に廃止されました。

1920年は戦後恐慌による不景気だと考えられます。

旭ヶ岡駅の一時廃止も同じ日でした。

同じく1974年7月20日には南大阪線の数駅が廃止になりました。

屯鶴峰駅についてはこちら→近鉄の駅間距離4位!上ノ太子~二上山は偶然の産物?で触れました。

この1974年って時期は、その前の年に石油が出る国で戦争があった時期で、景気が悪くなったタイミングです。

駅が2つなくなったため、古市・喜志・富田林の駅間距離は、長野線ではちょっと長め。

  • 古市~喜志:3.4キロ
  • 喜志~富田林:2.3キロ

富田林から先、河内長野までは2.0キロ以内の駅間距離です。

そして吸収合併

長野線を持っていた大阪鉄道は、なんとか近鉄(大軌)にやられずに会社経営を続けてました。

桜が有名な吉野へは乗り入れしている吉野線のポテンシャルもありましたね。

ですが1929年、大阪鉄道の取締役に「金森」が就任します。

そう、大軌の金森です。

大阪鉄道の株めっちゃ買ったった(笑)

と、カネの暴力で大阪鉄道を実質、大軌(近鉄)のモノとしました。

1943年、大阪鉄道は戦時統合によって関西急行鉄道に合併されます。

時は大東亜戦争の真っただ中。私鉄がバラバラではダメだと、お国からの命令がありました。

これによって一気に近鉄の関連会社が1つにまとまりました。

こうして関西急行鉄道ができて、そこから近畿日本鉄道が生まれました。

詳しい近鉄の歴史年表はこちら↓

>>近鉄はどうやってできた?歴史をイチからたどってみた(前編)

近鉄長野線、これからどうなる?

近鉄長野線、これからどうなる?

引用:Google Map

近鉄長野線は一部、高架工事の途中ですね。

上り線については2022年6月4日から運用スタートしてます。

下り線はまだです。(2023年3月現在)

高架区間900m短くね?

この事業で踏切は3つ消えます。

やる意味あるんか?と思いますが、栗ヶ池バイパスから踏切を無くすことが最大の目的です。

栗ヶ池バイパス

この道路は近鉄長野線に沿っている大きな道路2つを繋ぐ、太い道路。

更にずっと西に行けば太子町へ行ける、主要な道路でもあります。

そのため交通量がクソ多くなると渋滞に。

片っぽは国道170号線大阪外環状線)と超重要な道路です。

そんな所に踏切があったら、余計に渋滞の原因になる・・・というわけで高架にする事に。

区間・複線化するのか?

近鉄長野線は古市~富田林は複線です。

富田林~河内長野は単線で、滝谷不動ですれ違いができるようになってます。

一部分・・・特に河内長野駅からちょっとだけは、複線化のための用地がありますが

他の部分に、その余裕はありません。

ですので、長野線の全区間・複線化は無いでしょう。

近鉄長野線と南海高野線の直通は・・・・・

理論上は可能です。

  • 電圧が同じ
  • 線路幅が同じ
  • 集電方式が同じ

ですので、保安装置の相互さえクリアして、後は線路を繋げてしまえば可能です。

しかし、そこまでする必要性はありませんね。

そもそも、新大阪→なにわ筋線→南海というルートができる将来なので、わざわざ乗り換え乗り換えで近鉄長野線を利用する必要が無い。

夢は見るだけにしておきましょう・・・( ˘ω˘)

今回はここまで。それでは、またの。

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