引用:Google Map
近鉄は一度、自社の路線になったけれど手放した路線がいくつかあります。
今回はそのうちの1つ、三岐鉄道北勢線の歴史をざっくり見てみました。
こんな感じの内容です。
他にも近鉄から離れた路線はいくつかあります。
四日市あすなろう鉄道のことは記事にしてますので、また後にでも読んでみて下さい。
養老鉄道はこちら↓
三岐鉄道北勢線の歴史
引用:Google Map
北勢線は最初、北勢鉄道が開業します。
名称変更で、北勢電気鉄道
戦時統合で、三重交通
経営分離で、三重電気鉄道
北勢線の開業(1914年)
北勢線の開業は1914年4月5日で、西桑名~楚原が開業しました。
周辺は、今でいう湯の山線・四日市あすなろう八王子線・養老鉄道の一部が開業しています。
四日市や桑名を中心に私鉄が鉄道を通そうとバキバキに工事中です。
ですが、まだ近鉄は大阪と奈良を通しただけで借金まみれ。
北勢線の地域にまで知られてない、イチ私鉄だったと思います。
関連記事:>>近鉄はどうやってできた?歴史をイチからたどってみた(前編)
桑名や四日市に私鉄が集まる理由
コレは単純な話、旧東海道が桑名・四日市を通っているからです。
東海道は江戸時代の五街道の1つで、東京日本橋から京都三条大橋を結ぶ、日本最大の街道。
この東海道をモジったのが東海道新幹線ですね。全然ルートは違うのですが
で、東海道の宿場町(高速道路でいうサービスエリアみたいなもん)が桑名と四日市にありました。
参考・引用:旧東海道の地図もちろん江戸時代に鉄道みたいな便利なものはありません。
多くの人は東海道を歩き、時には船。馬を使いながら京と江戸の間を行き来してました。
だから桑名や四日市には昔から人やモノが集まり、栄えていたのです。
関連記事:>>近鉄桑名駅、なんで特急停車駅なのに2面3線なの?
北勢線誕生の理由
北勢線は濃州道という街道と平行しています。コレが大きな理由です。
濃州道ってのは、ちょっと桑名の中心から離れた所と桑名の城下町を繋ぐ道路です。
少なくとも300年以上の歴史はある街道なので、人も結構住んでたと思います。
1909年に新たな鉄道の法律(軽便鉄道法)ができて
濃州道の沿道地域の人たちはテンションが上がり、ついに北勢鉄道ができました。
地方鉄道の建設活性化のために作られた法律です。
当時はもう国鉄があり、競合になりそうな私鉄を締め付け始めてました。
でも、今度は国鉄にローカル線を作る力がなくなったので、抜け道を用意してあとは民間にお任せしたって感じ。
低コストで作れるメリットはありますが、その分スペックは低く、輸送力が低いです。
- 1914年:西桑名~楚原(そはら)
- 1915年:西桑名~桑名京橋
- 1916年:楚原~六石(ろっこく)
- 1931年:六石~阿下喜(あげき)
開業年表は、こうなってます。
間があいているのは、工事が大変だったためです。
そして全線開業とともに電化。
濃州道という立地の良い所を通したので、経営は順調でした。
1934年に北勢鉄道から北勢電気鉄道と社名を変更しました。
北勢線の近代史|合併そして廃線の危機
引用:Google Map
阿下喜駅から1.7kmほどの所に、いなべ市の市役所があります。
そのくらい北勢線の終着駅にはそれなりのポテンシャルがあったのでしょう。
ですが、時代の流れや運には逆らえませんでした。
三重交通への統合
日本は重要なインフラである陸運の1つ、鉄道やバス会社に対して「なにかあったら色々と口出しできる」法律を作ります。
戦争による不穏な流れです・・・
そして三重県の複数の陸運会社は合併することになります。
北勢電気鉄道もその1つで、三重鉄道や神都交通、志摩電気鉄道などなどと合併することに。
この時、三岐鉄道は入ってません。
合併の中身は、営業が好調だった北勢電気鉄道にとっては良い事がありませんでした。
というわけで、北勢電気鉄道は三重交通の株でもプレミアクラスの株をゲットします。
普通、株ってのは誰が買っても平等なのですが、ランク付けすることも可能で、北勢電気鉄道は第1種株式を持つことができました。
2種・3種に比べて、お金が多く貰えるとかの特典が付いてます。
三重電気鉄道。そして近鉄へ
戦争が落ち着き、三重県内の陸運はちょっとゴチャ付きました。
近鉄が名古屋線や山田線といった主要路線を運営。さらにはバスにも手を出し始めます。
三重交通は近鉄の支線になりそうな路線やバスを運営してました。
事業を整理した方が良いんじゃね?と近鉄と三重交通で話し合いが行われ
鉄道は近鉄。バスは三重交通。このように分けてしまおうと決まります。
そうして三重交通の鉄道部門を切り離すために三重電気鉄道を設立。
近鉄が三重電気鉄道を吸収合併しました。
ついでに湯の山線・志摩線・四日市あすなろう鉄道も近鉄のものとなりました。
ちょい更新されたが、乗客離れが起こる
近鉄が運営することになり、細かな部分がアップグレードしていきました。
ですが、軌間変更などの更新は行われませんでした。
これは私の想像ですが、湯の山線や志摩線と違うのは観光産業との結びつきが弱かったことです。
四日市あすなろう鉄道も住宅地を通るローカル線だったので、後回し後回しになってたと考えられます。
ですが経済の停滞や車の普及率上昇で、どんどん利用者は減少。
ついに2000年、近鉄は経営改善のために尻尾切りを行います。
ですが北勢線の沿線自治体は、存在意義が高いと抵抗し始めます。
しかし近鉄は知ったこっちゃねぇと事業廃止届を提出
三岐鉄道は嫌~な顔を一瞬したかもしれませんが
この2つの条件を出されたので、三岐鉄道は首を縦に振ります。
三岐鉄道
それで成り立ってたの?と思いますが、メインは貨物だったのです。
藤原岳という山から石灰岩を運び出すための路線で、そのままJRに乗り入れることも可能なんですよね。
引用:Google Map
人の利用が増えたのは、後付け。
ちなみに石灰岩は、チョークや肥料に使用されますし、工業系でもあらゆるものに使用されます。
もともとは北勢線を利用しようかと考えてたんですが、軽便鉄道の規格だったので貨物には耐えられませんでした。
ですので、仕方なしに地元の大きな会社が共同で作りました。
北勢線の廃線部分
引用:国土地理院地図
北勢線は桑名京橋まで路線が伸びてましたが、戦後に廃止になりました。
理由は国道1号線との平面交差の解消です。
東西に向いていた駅を南北に変え、今の駅になりました。
引用:Google Map
工事の手間をなるべく減らしたかったのか、西桑名駅の手前で少しだけ東へ向いてますね。
敷地の都合もあったかも・・・?
まとめ:三岐鉄道・北勢線は地元に救われた
北勢線は“いなべ”の住民のために作られた鉄道路線で、戦後くらいまでは大活躍しました。
ですが不況や車社会への移行で、だんだんと経営が大変になり、近鉄に捨てられてしまいます。
そこで立ち上がったのが沿線自治体や地元の会社でした。
ちょっと近鉄が悪者に見えたかもしれんけど、あまり悪いように言ってあげんといて?
今回はこの辺で。ほなまた(=゚ω゚)ノ
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