かつては近鉄だったけど、今は分離された路線があります。
これらは元々別の会社でした。
ですが、合併などを経て近鉄になり、再び分離。
現在はそれぞれ近鉄との距離感も違います。
今回は以上の4鉄道路線がどんな歴史を歩んできたのか、ざっくりとまとめてゆきます。
近鉄から分離された4つの鉄道路線の歴史
引用:四日市あすなろう鉄道フォトギャラリー・快走!なろうグリーン・ひながナローさん
正確に言えば近鉄から分離した路線は5つですが、南海については事情が少し違うので別にします。
適当な解説はこの記事で入れるので、許してね。
それでは1番北にある養老線から始めます。
養老鉄道養老線
引用:Google Map
養老鉄道養老線は、福井県敦賀と三重県四日市を繋ぐ、貨物もみすえた壮大な計画から始まりました。
ですが、水運業からの反発がデカかったこと
不況の影響も重なって、計画はとん挫します。
養老鉄道の開業
仕方がないので、東海道のデカい宿場町の桑名と観光地の揖斐を結びながら鉄道空白エリアを埋めることに。
大垣~桑名~四日市の短絡ルートが確立
こういう背景もあり、そこまで苦しくはなかったみたいですが・・・
お金をかけ過ぎてしまい、借金がなかなか減らない状態に。
伊勢電気鉄道の無双・・・そして転落
伊勢電は「東海の飛将軍」と呼ばれる熊澤が社長になっていて
- 四日市~桑名の免許を持っている
- 桑名~大垣~揖斐の路線がある
- 線路幅が同じ
と良いことばかりの養老線を欲しがります。
養老鉄道側は手放したかった状況なので、互いの利害は一致。
こうして養老線が伊勢電のモノになります。
勢いがあった伊勢電は、さらに路線を外宮前まで伸ばし、桑名から名古屋を目指します。
しかし、桑名と名古屋の間にある木曽三川を越える橋脚の買取について汚職を疑われました。
「五私鉄疑獄事件」です。
コレで熊澤が逮捕、有罪判決を受けたことや業績の右肩下がりで、伊勢電は経営破綻
伊勢電とバトルをしていた参宮急行が、伊勢電を吸収合併します。
そうして実質、養老線は参宮急行のものになりました。
赤字が続き、近鉄が白旗を上げる
しばらくは近鉄で運営、運行されてましたが、赤字が続いていて頭を悩ませてました。
すると存続してほしい自治体は、金銭的な支援をすると約束しました。
最初は、この状態で開始。
それから10年後に形態を変更します。
養老管理機構ってのは、養老線の沿線自治体が集まってできた団体です。
こうして公有民営方式になりました。
補足説明:公有民営方式について
公有民営方式は、線路や土地、建物の所有権が市役所などの自治体が持っている状態
そして、鉄道の運営自体は民間企業がやってます。
民間企業は、自治体から色々と借りて運行する。これが公有民営方式です。
何が良いのかと言うと
- 土地や建物などは通常、税金が取られる
- だけど、公的なものだから税金は免除
- 自治体がいくらで貸すかは、あるていど自由
- 民間は、決まった家賃を払いながら運営する
莫大なお金がかかる「下モノ」の費用を抑えられるワケです。
こうして鉄道を運営する会社の負担を、ゴッソリ減らすことができるのです。
まぁ、税金の免除がされてないパターンもありますが・・・
三岐鉄道北勢線
引用:Google Map
三岐鉄道北勢線は北勢鉄道が作った、桑名~阿下喜(あげき)間の小さな鉄道です。
そして桑名の城下町と周辺の小さな村を結ぶ、濃州道に沿って作りました。
桑名はデカい町なので、周辺の集落もそこそこあったのでしょう。
ローカル線の苦悩
北勢線は小さな鉄道を作る時の法律、軽便鉄道法に則って作りました。
これには縛りがあって、日本は基本的にナローゲージ(標準軌の半分の線路幅)で作ることになってました。
ナローゲージには
- 低コストで作れる
- 急なカーブに強い
- 並行鉄道があっても作れる
このようなメリットがありましたが、輸送力が弱いというデメリットもありました。
ただ、北勢電気鉄道は結構調子が良かったので、第2次世界大戦まで存続してました。
戦争になって国からの命令が出てしまい、北勢電気鉄道は仕方なく三重交通グループに入ります。
この時に一緒になったのが、三重鉄道(四日市あすなろう・湯の山線)や志摩電気鉄道(志摩線)、新都交通です。
三重の交通インフラを整理することに
ですが、近鉄も鉄道やバスを三重県内で運営していたので、互いに話し合って整理することにしました。
三重交通は、鉄道部門を「三重電気鉄道」にして分離。近鉄に合併させました。
利用者の減少。そして分離
近鉄が運営することになって、ちょっとした部分はアップグレードしたんですが・・・
北勢線は、住宅エリアを縫うように走ってるだけの路線です。
県立高校は楚原に1つ、七和に県立工業高校が1つありますが、輸送力が小さいために車を運転できる人にとっては、利用価値がありません。
そのせいか赤字が止まらず、ついに近鉄はバスに切り替える方針を発表します。
ですが、沿線自治体は抵抗。
そんなこと知ったこっちゃねぇと、近鉄は事業廃止届を提出したので、沿線自治体は三岐鉄道にお願いする事にしました。
三岐鉄道は近鉄と全く関係のない会社ですので、北勢線は完全に近鉄から分離されたと言えます。
三岐鉄道
三岐鉄道は、藤原岳にある石灰石を工業地帯へ運ぶための貨物メインとして開業しました。
最初は北勢線を利用しようかと考えてたんですが、ナローゲージのために貨物に耐えられないということで、地元の企業が三岐線を作りました。
というわけで
と私鉄ではちょっと珍しい、線路幅が違う路線を持った鉄道会社となりました。
ちなみに貨物で儲けていたので、三岐線(三岐鉄道)は結構余裕があったみたいです。
三重交通に入りませんでしたからね。
関連記事:>>近鉄が手放した路線・北勢線の歴史を振り返ってみた
四日市あすなろう鉄道
引用:Google Map
四日市あすなろう鉄道は、近鉄四日市から伸びるローカル線です。
八王子線と内部線でできた、本当に小さな鉄道で営業距離が7kmほどしかありません。
なにがために作った?
四日市は旧東海道の宿場町(高速道路のサービスエリアみたいなもん)です。
四日市と八王子を結ぶローカル線を作ることにしました。
笹川通りという、街道に沿って作りました。
もう1つは日永駅から分岐して、鈴鹿市伊船町まで伸ばそうとしましたが、計画がとん挫してしまいます。
合併からの合併
四日市には当時、もう1つナローゲージの路線がありました。今の湯の山線です。
乗り入れが可能なので三重鉄道(四日市あすなろう鉄道)は狙い撃ちにして、湯の山線を持っていた四日市鉄道を合併しました。
この時伊勢電は勢いに乗ってて、三重鉄道も四日市鉄道も傘下に。
会社は一応別ですが、伊勢電の仲間だったのです。
そして伊勢電は養老鉄道からもらった四日市~桑名の免許、あすなろう鉄道や湯の山線の路盤を使い、四日市から桑名へ延伸していきます。
さて、完全に伊勢電の中に入っていたわけではない三重鉄道は、戦時統合で三重交通になります。
そして三重電気鉄道に分離し、近鉄の仲間に。
近鉄と四日市でモメた、分離騒動
近鉄は八王子線・内部線が赤字垂れ流しであることを四日市市に相談しました。
それを受けて四日市市は、駅前広場の整備などをしましたが、効果ほとんどなし。
ですが四日市市が反対。住民の署名もあり、近鉄は踏みとどまります。
近鉄は四日市市と話し合い、上下分離方式で運営することに決めました。
会社名は「四日市あすなろう鉄道株式会社」
鉄道の施設や車両などは、タダで貸すことにして、その代わり利益が出たら四日市市に。
ですが営業損失がでたら、四日市市が補てんすることになりました。
近鉄は赤字路線の整理完了や経営権75%の保有で納得し、今に至ってます。
関連記事:>>近鉄にポイされた?四日市あすなろう鉄道に何があったのか
伊賀鉄道伊賀線
引用:Google Map
伊賀鉄道伊賀線は、伊賀軌道が作った、これまたローカルな鉄道路線です。
伊賀の上野町というエリアは城下町で栄えた町
ですが、関西本線の駅は位置的に微妙に不便なところにできてしまいました。
そんな不便さを解消するために、伊賀線が完成しました。
近場の大きな町、名張を目指す
名張は伊賀エリアのもう1つのでかい地域で、歴史のある町でした。
旧初瀬街道という、大阪と伊勢を結ぶ道路もあって、そこそこ発展してました。
もう1つは、反対側が青山峠だからでしょう。
あっさりと吸収合併される
大軌は大阪線を延伸し始め、桜井に。
ついには大和鉄道まで吸収合併し、名張をぶち抜き、伊勢平野にいたる免許も手中に収めます。
その直後、名張~上野まで敷かれてた鉄道に気付いた大軌は
くらいのノリで伊賀鉄道を吸収合併しました。(多分。知らんけど)
しばらくは名張~伊賀神戸までほぼ平行路線ですが、特になにかする事なく続きます。
部分休止→復活→廃線→分離
戦争により不要不急の路線は、軒並み休止となりました。
戦争が終わった後に復帰しますが、近鉄は路線の整理で廃線を決めます。
その代わりでもあるし、新しい住宅エリアを作る計画にした近鉄は、桔梗が丘駅を新設しました。
伊賀線はそれからずっと右肩下がり
人が乗らないスカスカ路線なので、伊賀市と相談して伊賀線を分離、子会社化することにしました。
出資額の割合はコレでスタート。
とりあえず10年、様子見しましたが全然ダメだったので公有民営方式に変更しました。
公有民営方式になって、営業利益・損失はマシになりましたが・・・今後どうなるかは微妙な感じです。
関連記事:>>伊賀鉄道伊賀線の歴史。立ち上げや関西本線との関係は?
近鉄から分離された路線一覧
引用:Google Map
近鉄から分離された路線(南海のぞく)は
以上の4路線でした。
これらを比較してみましょう。
分離路線のオーナーはどう変化した?
養老線 | 北勢線 | あすなろ | 伊賀線 |
---|---|---|---|
養老鉄道 | 北勢鉄道 | 三重軌道 | 伊賀軌道 |
揖斐川電気 | 北勢電気鉄道 | 三重鉄道 | 伊賀電気鉄道 |
養老電気鉄道 | 三重交通 | 三重交通 | 大阪電気軌道 |
伊勢電気鉄道 | 三重電気鉄道 | 三重電気鉄道 | 関西急行鉄道 |
参宮急行電鉄 | レ | レ | レ |
関西急行鉄道 | レ | レ | レ |
近畿日本鉄道 | 近畿日本鉄道 | 近畿日本鉄道 | 近畿日本鉄道 |
大軌が直接ゲットした伊賀線もあれば、伊勢電経由でゲットした養老線
三重交通との交通インフラ整理で手に入れた、北勢線や、内部・八王子線
それぞれ事情が違いますね。
分離した路線は、どうなった?
第1段階 | 第2段階 | |
---|---|---|
養老線 | 子会社で運営 | 公有民営方式 |
北勢線 | 近鉄がポイ | 三岐鉄道が所有・運営 |
あすなろ | 四日市市と議論 | 公有民営方式 |
伊賀線 | 子会社で運営 | 公有民営方式 |
容赦なくポイした(?)北勢線
始めっから公有民営方式にした、あすなろう鉄道
それぞれ事情が違うのは、やはりポテンシャルに差があったからでしょうか。
北勢線も、あすなろう鉄道も、住宅地と商業地を繋ぐだけの路線ですので、バスに切り替えるべきです。
一方で養老線は鉄道空白地帯でもあるし、揖斐・養老・多度といった観光地
伊賀線も上野は観光地だし、名張との人の行き来もあったからこそのワンクッションだったと考えられます。
南海の合併、分離は何だったのか
近鉄は一時期、南海と手を組んでました。
これも戦時統合で、国からの命令です。
実は南海と合併した時に、高野線の高野下~高野山だけはそのままで、高野山電気鉄道が運営してました。
南海鉄道と高野山電気鉄道は、協力関係ではありましたが会社は別々だったのです。
全く関係や繋がりがなかった近鉄(当時は関西急行鉄道)と南海、上手くいくはずがありません。
戦後、落ち着いてきた1947年
近鉄が南海の路線を分離するときに、南海だった路線全てを高野山電気鉄道に渡します。
高野山電気鉄道は、南海電気鉄道に社名を変更して元通りになりました。
まとめ:近鉄から切り離された路線には、それぞれの事情があった
引用:Google Map
まぁ元の会社が別々ですし、沿線環境も全然違いますからね。
色々と事情があったんです・・・はい。
勢いでゲットしたり、オマケに付いてきた路線と近鉄の路線になった事情も違いますし
経営状態もバラバラで、いきなり公有民営方式にしてたのもあれば
まずは子会社に分けて様子をみてた路線もありました。
今回はこの辺で。またね
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