撮り鉄の鉄道ノート

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養老鉄道養老線が近鉄から分離された理由は?

養老鉄道養老線が近鉄から分離された理由は?

引用:Google Map

今回も近鉄が手放した路線シリーズで、養老鉄道養老線のお話をします。

養老線に何があったのか

なぜ養老線を作ったのか

どういう経緯で近鉄のものになり、なぜ近鉄が手放したのか・・・歴史を掘り返してみます。

養老鉄道は壮大な計画が元だった

養老鉄道は壮大な計画が元だった

引用:国土地理院地図

日本には江戸時代から運河の計画があったことは知ってるでしょうか

日本海と太平洋を行き来できるルートが限られているので、特に距離が短い

敦賀→琵琶湖→大阪湾や伊勢湾

このような水運ルートを作ろうと昔っから計画していました。

ですが、これは実現してません。

養老鉄道はこんな壮大な計画を鉄道で叶えようと企んでました。

養老鉄道の計画

養老鉄道敦賀港と四日市港を結ぶ鉄道を計画してました。

  • 船では日本海から太平洋まで遠回りになる
  • 鉄道という技術が伝わった
  • 貨物列車を通したら儲かるかも?

というわけで、三重県岐阜県の有力者を集めて説得して鉄道を作ろうとしました。

ですが、これに反発したのは水運で飯を食ってる人たちです。

俺らの仕事を奪うな!

他にも農作物の不作や戦争の影響による不況もあって、なかなか計画のメドが立ちませんでした。

参考:明治23年恐慌/日清戦争

1911年、参加者は大垣市出身の立川勇次郎に声をかけます。

立川は、京浜急行の元である大師鉄道の専務取締役をやっていた人で、「都市の発展には大量輸送機関が不可欠だ」と考えていた頭のいい人です。

今でいう弁護士をやってました。

そして1913年に養老鉄道の一部区間が開業します。

参考:岐阜県養老町の歴史文化資源

養老鉄道の苦悩

養老鉄道が一部開業したものの、車両は中古で一部は南海のお下がりもあったそうです。

そして1916年に全線開通の工事に手を出し始めます。

ですが、第一次世界大戦の影響で資材の値段が爆上がりしてしまい、開業は1919年に。

これで桑名~大垣・大垣~揖斐と現在の完成形と同じ姿になります。

養老鉄道は桑名から更に先の四日市まで路線を伸ばそうとしますが

国鉄と平行するだろ?ダメー

と国から拒否されてました。しかし、一転して態度を変えます。

ルート違うなら良いよ。許す

こうして養老鉄道の計画は半分達成されました。

養老鉄道の中心人物が逝去

養老鉄道の社長、立川氏はとにかく電化。電気鉄道にこだわりがあった。

そこで自分が社長をつとめていた揖斐川電気株式会社との連携プレーを行います。

2つも会社があると邪魔くさいので、養老鉄道揖斐川電気に合併してしまい、あっという間に全線電化

これで利用者や貨物輸送を大幅に増加させました。

この勢いで四日市~宇治山田の延長免許を出しましたが・・・却下されます。

すでに伊勢電が四日市~津(部田)を完成させていることが原因の1つでしょう。

そして1925年に社長の立川氏が逝去。63歳でした。

社長の交代により、経営方針がどんどん変更されていってしまいます。

養老鉄道を狙っていた伊勢電

伊勢電気鉄道は1920年代からとんでもない勢いで成長していきます。

最初は津~四日市をショートカットする私鉄を作ったろか、ってくらいの小規模でしたが新社長の熊澤の影響で、三重県を掌握しようと動いてました。

四日市まで伸ばした伊勢電は、桑名・名古屋を目指してましたが

そこで目を付けたのが養老鉄道です。

  • 桑名~四日市の免許を持っている
  • 大垣・揖斐までの鉄道がある
  • 路線幅が同じ狭軌

こんなお宝を、伊勢電・熊澤は逃すはずがありません。

揖斐川電気(養老鉄道)は伊勢電の視線に気づいています。

・・・・これ欲しいんか?

欲しい(*'ω'*)

分かった。あげる

実は、メチャクチャ投資したわりには鉄道事業の利益が全然出てなかったので、揖斐川電気は手放したかったのです。

揖斐川電気株式会社は、事業の一部を「養老電気鉄道」として分離

伊勢電が合併して、次は伊勢電がオーナーになりました。

1929年11月には津新地駅(廃駅)~大垣の直通列車の運行を開始しました。

津新町ではありません。だいたいの場所は多分この辺↓

津新地駅

引用:Google Map

参宮急行に負ける伊勢電

1929といえば参宮急行の設立です。そっから1年で桜井~伊勢市までの路線を開業。

伊勢電も負けるかと、伊勢まで鉄道を延ばし、四日市から桑名まで延伸。

さらに名古屋への延伸を計画しますが・・・

東京・永田町では政変が起こってしまい、私鉄の社長たちは巻き込まれて次々と逮捕されてしまいます。

なぜか大軌・参宮急行の金森はセーフ。伊勢電の熊澤はアウトになってしまい、ここから伊勢電の勢いは更に下落していきます。

熊澤どうこうというより、お金が足りず経営がヤバかったんですよね。

そして伊勢電は倒れ、参宮急行が全て拾いあげます。

養老鉄道もあとで参宮急行が合併。こうして次のオーナーは参宮急行になりました。

戦時統合で関西急行鉄道に。そして南海までも一緒になって、近畿日本鉄道となりました。

車の普及、人口の減少で利用者減

養老線はしばらく近鉄のもとで運営されてましたが、赤字が続いてしまいます。

この路線、どうしましょかね?結構厳しいんですわ

金銭的支援するから維持してほしい

というわけで近鉄養老鉄道を分離することになりました。

分離と言っても、経営権のほとんどは近鉄が握ってます。

養老鉄道株式会社の株の持ち主は、こんな割り振りになってます。

養老線管理機構というのは、養老線の鉄道施設、車両の維持管理をする一般社団法人です。

営業そのものは養老鉄道株式会社がします。

こうなってます。

沿線自治体は、鉄道の維持管理のためにそれぞれの人口や営業キロ、駅数を考慮した割合を負担することになりました。

参考:岐阜県池田町広報誌『広報いけだ』平成19年3月号より

ちなみに神戸町は「ごうど」と読みます。割合的には「ごうど」が多く、次は「かんべ」で「こうべ」は珍しいです。

「ごうど」は地形が由来で、川や丘に挟まれた小さくて平坦な土地のことを指します。

養老鉄道の夢は叶いませんでしたが、こうして今でも養老鉄道は何とか生き残っています。

養老鉄道のアレコレ

養老鉄道のアレコレ

引用:Google Map

養老鉄道にまつわるアレコレについて、簡単にまとめておきます。

  • 大垣駅の構造
  • 貨物輸送があったこと
  • 沿線自治体や揖斐に鉄道を通した意図

養老鉄道大垣駅

大垣駅は行き止まりになっていて、1本で桑名→揖斐まで行く事ができません。

運行自体も大垣で途切れていて、桑名~大垣と大垣~揖斐でピストン運行をしています。

なぜこんな駅にしたのかは、ハッキリしませんが

  • 大垣駅付近にスペースがなかった
  • でも大垣に駅を置きたかった
  • なら最小限のスペースで済む方法で

多分コレが理由。

街が栄えてて、あまり土地を取れない時に採用されるやり方ですね。

JRの貨物輸送ルートとして使用された

現在では使用されてないそうですが、かつては樽見線→大垣→養老線→桑名→関西本線と貨物輸送していたそうです。

セメントを輸送していたらしい

JRの貨物輸送ルートとして使用された

引用:Google Map

オレンジがJR路線を使った場合のルートで大垣~桑名が約68km

赤が養老線を使った場合のルートで大垣~桑名が約43kmです。

養老線を使った方が距離が短いし、スイッチバックも必要ありません。

参考:MY HOBBIES

養老線の沿線自治体・揖斐というエリア

桑名についてはこちら→>>近鉄桑名駅、なんで特急停車駅なのに2面3線なの?で解説したとおりで

桑名が東海道の宿場町だったからです。

そっから木曽三川をかわしながら北上するルートを使うので、自然と多度を通り、海津市養老町を貫きます。

計画通りであれば、そこから関ケ原へ抜けるつもりだったのかもしれません。

ですが、既に北陸本線が完成していることもあって断念。

観光資源になりそうな揖斐を目指した・・・と考えられます。

揖斐から敦賀ルートは、ほとんど何もないからね

揖斐の歴史も結構古く、少なくとも西暦800年頃には人が住んでいて街づくりをしていたようです。

ですが養老鉄道は揖斐の中心地からは離れていて、粕川の手前で途切れています。

1974年~1978年国土地理院地図・航空写真

引用:国土地理院地図

1974年~1978年国土地理院地図・航空写真です。

これを見ると、多分ですがもうちょっと伸ばすつもりだったのかも・・・?

幻の養老鉄道岐阜線

養老鉄道には未成線の岐阜線という計画がありました。

これは大垣から岐阜までの延伸や、揖斐・長良の間に鉄道を引く計画でしたが、話が進まないまま伊勢電が倒れてしまいます。

近鉄が運営してからも、しばらく計画は生き残ってました。

そして東海道新幹線の着工が決まり、近鉄は羽島へ伸ばす計画に変更して動き出しました。

ですが羽島への免許は名鉄に降りてしまい、この計画は幻となってしまいます。

詳しい話はこちら→近鉄の未成線「四条畷線」と「岐阜線」計画を蒸し返す

まとめ:養老鉄道養老線はオーナー変わりまくり

色々な事情があり、コロコロとオーナーが変わりましたが、何とか残っているローカル線ですね。

結局のところ、養老線も車社会と不況、人口減少のあおりを喰らって近鉄が手放しちゃった・・・という感じ。

手放した、というか子会社に任せながら、維持管理の補助を沿線自治体から引っ張るという

広い意味での「上下分離方式」になりました。

ライバルとなる路線はなく、上下分離方式で上手く経営しているので、廃線になることはまず考えられませんね。

それでは今回はこの辺で。またの。

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