2023年10月25日に開業から111周年に。
実はこの古さ、近鉄が保有している路線の中では3番目に古いです。
詳しい歴史はこちら→近鉄はどうやってできた?歴史をイチからたどってみた(前編)をご覧ください。
近鉄吉野線を作る前からの話
近鉄吉野線は今ある近鉄100%保有の路線の中では、かなり古い方です。
この路線を作る事になった理由は、JRの和歌山線でした。
明治後期の鉄道拡大
明治の後期に、日本各地で鉄道ができました。
そして1896年、JR和歌山線の一部が開業。
王寺~高田~吉野口が開業し、この時には既に王寺から奈良や難波にも行ける状態でした。
ちなみに1900年には和歌山線が全通します。

吉野の北の方に住んでる人たちにとっては、駅まで少し遠かったようです。
ということで、吉野口から六田の鉄道免許を申請しました。
この免許は通ります。


却下されたのは、このルート
理由は謎です・・・
開業に向けて動くが・・・
免許が下りたので会社の設立や用地の買収を始めました。
ですが、不況が訪れます。
この時代は大陸「清王朝」で宗教関係の内乱が起こってしまい、そこへ日本などの連合国が介入。
もちろん連合国が勝つのですが、得られるものは無いですし、物資を使うために不況へ転落してしまいました。

と、吉野鉄道の株主がブチギレ。会社解散の決議が行われてしまい、免許も払い戻しになってしまいました。
大淀村による再計画
その後、やっぱり不便なままでは困るということで、次は馬車鉄道として計画して出願しました。
馬が、線路の上に乗った車両を引く鉄道のこと。
動力が馬なので、コストを大幅に減らせられます。
その後、軽便鉄道法といった新しい法律ができたので、馬車鉄道から軽便鉄道に変更。
会社を設立し、吉野線の開業を始めます。
この時、12年前に買収済みの用地を利用しました。
開業した近鉄吉野線(吉野鉄道)
吉野口駅~六田駅まで難所はいくつかありましたが、なんとか1912年10月15日に完成。
開業日は10日後の25日です。
この時に作ったのが薬水拱橋で、レンガ作りのアーチ型の橋。とても古いものなので、土木遺産に指定されてます。
開業日の事件
どうやら工事を担当していた人に対し、ちゃんと給料を払ってなかったようで
開通式の日に、列車の前に立ちふさがって抗議する人が現れました。
妨害は4時間ほど続いたそうです。(警察がどかした)
この件については、会社側がちゃんと支払った事で解決しました。
経営は順調
当然のことですが、吉野の桜は観光名所ですので、春は大儲け。
それ以外の時期は貨物で収益を上げていて、営業はかなり順調でした。

開業から1年後、吉野軽便鉄道から吉野鉄道に改称。
次の目標は線路の延長と電化です。
吉野口から延伸し、JR桜井線の畝傍駅へ向けて延伸することに。
1920年に免許が下りました。
この時はまだ、大軌は橿原線を完成させてません。
1918年には国から免許を出す条件として「天理線と田原本線を買収せぇ」と言われてました。
先に橿原神宮前に到達し、開業したのは大軌。
あとから吉野鉄道が大軌の橿原神宮前駅に接続しました。
1923年12月5日に吉野口~(旧)橿原神宮前が開通。
そして翌年には、畝傍まで延伸しました。
場所は多分ですが、駅南側の高取川との間の敷地です。

実は今の六田駅の対岸あたりから、吉野駅までの免許を持っていた会社がありました。
どうやって吉野鉄道が手に入れたかは知らんけど、免許を譲り受けました。
ですが川を渡った向こう側では意味が無いので、吉野鉄道は自社で六田~大和上市の免許を取得。
譲り受け分と合体して、吉野駅まで延伸しました。

吉野の地元の人たちはこう考えて、千本口から吉野山のロープウェイを作りました。
ですのでロープウェイと吉野線は元々、資本関係はありません。
吉野鉄道の最期。大軌に吸収される
1928年には全通した吉野線ですが、こんな観光路線をほっとく所はありません。
大阪電気軌道(近鉄の元祖)と大阪鉄道(南大阪線を作った所)が取り合う事になりました。
吉野鉄道の目線からすると
これは個人的な想像ですが

理由は簡単で、線路幅が同じだからです。
もちろん、そんな事は大軌が想定していたので、脅しをかけます。
なぜ免許が下りたのかは不明ですが、実際に橿原神宮前~下市町・大淀町~吉野村の免許が下りてます。
こんなもんを作られたら吉野鉄道は終了してしまうので、大軌の傘下に入る事にしました。
1929年8月1日に合併し、大軌吉野線となりました。
大阪鉄道の目線
大阪鉄道からしたら、横やりを1発入れられた感じ。
ですが、大阪鉄道の状況は既にボロボロでした。
1929年には、大軌の役員が経営権を持つまで会社の株を買われてしまいます。
ですので欲しいと思ってても、手を出せるほどの力が残って無かったでしょう。
大阪電気軌道の目線
大軌からすると、吉野鉄道の吸収合併は予定通りでしょう。
線路幅の違いは気にしてなかったと考えます。
- 大阪鉄道がヤバめだった
- 既に数%の大鉄株を持っていた
最終的には、どっちも合併してしまうつもりだったのでしょう。
だったら、吉野鉄道を傘下にする必要ないやんけ・・・と思うでしょうが、吉野鉄道だけ先にゲットするメリットはあります。
- 規模が小さいから買収が簡単
- 財務状況が良いから合併の反対がでない
大鉄に取られたら、赤字補てんされる可能性もあったので
後のことまで考えて、先に吉野鉄道だけでも吸収したんじゃねぇかと考えられます。
こうして吉野鉄道は大軌に吸収されてしまいました。
年表
1896年1月 | 吉野口~六田の免許を申請 |
1897年6月 | 吉野鉄道を設立 |
1899年4月 | 免許を受け取る |
1902年11月 | 会社、解散の決議が出る |
1908年 | 大淀村が馬車鉄道を計画。出願 |
1910年 | 軽便鉄道に変更して会社を設立 |
1911年 | 吉野鉄道、復活 |
1912年10月15日 | 吉野口~六田が完成。25日に開業 |
1913年 | 吉野軽便鉄道→吉野鉄道 名称変更 |
1920年 | 吉野口~畝傍の免許を申請 |
1923年12月5日 | 吉野口~橿原神宮前(旧)が開通 |
1924年11月1日 | 橿原神宮前(旧)~畝傍が開通 |
1924年7月5日 | 吉野までの免許を譲り受け |
1928年3月25日 | 六田~吉野が開業 |
1929年8月1日 | 吉野鉄道が大阪電気軌道に吸収合併される |
近鉄吉野線の駅
当ブログ内で紹介した吉野線の駅は、ここで軽くまとめておきます。
橿原神宮前駅
引用:GoogleMap
それとは別に、橿原神宮前駅が第一鳥居の前にあったそうです。
ですが、1940年の皇紀2600年イベントのため、駅を統廃合することに。
その他、詳しい歴史や駅の面白い所などなどは以下のリンク先からどうぞ。
薬水駅
引用:Google Map
吉野線、最初の開業は吉野口~六田間なのですが、最初から薬水駅はありませんでした。
あとから追加されてます。
駅名の由来となったのは、弘法大師(空海)が見つけた薬のような水が湧き出る所。
駅からちょっと歩いた所に「薬水の井戸伝承地」があります。
理系としては、どんな水なのか分析してみたい・・・
あとは、薬水拱橋
この橋の造りは珍しいので、土木遺産に登録されてます。
詳細は下記のリンク先からどうぞ。
>>吉野線の薬水駅、どうしてこんな駅名に?弘法大師(空海)が関係してた
近鉄吉野線は絶賛植栽中
以前に特急で吉野まで行った時に、沿線に色々と植えていまっせ~と宣伝していたような気がします。
ですので、そのうち四季折々の花が窓から見えるようになるかと・・・
春だけでなく、他シーズンもぜひ行ってみてくださいな。
それでは、また。吉野線の駅が増えたら更新しますね。
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